コスキン日本人無縁墓墓参り
令和7年10月17日
日本人墓地のある集団墓地入り口
コスキン日本人無縁墓石碑
2025年10月12日(日)、八島智幸領事はコスキン市へ出張し、水溜ガブリエル氏(コスキン市在住の日系人)の案内により、同市の日本人墓地を訪問、墓参りを行いました。
日本人墓地墓参り
日本人墓地墓参り
日本人墓地墓参り
【参考情報】
・1920年代、結核の療養に適した澄んだ空気と乾燥した気候を求め、多くの日本人がコルドバ州の山間部コスキンを訪れました。1925年ごろから日本人患者が集まり、やがて23名がこの地で亡くなりました。
彼らの遺体が墓穴に埋められたままになっているのを憂いた水溜侃氏、玉城勝氏、比嘉サンティアゴ氏らが発起人となり、前川一家の協力で墓石を建立しました。墓石は宮城県の石材業者の支援で造られ、後に2011年の東日本大震災で行方不明となるも、奇跡的にアルゼンチンに届き、再び墓所に戻されたという感動的な経緯があります。
・結核患者の増加に対応するため、1931年にコルドバ在住日本人らが療養患者の宿泊・食事・手続き支援を行いました。
これをもとに、1936年には「在亜日本人会付属コスキン結核療養所」が正式に発足。男子・女子病棟を備えた50床の施設となり、多くの日系人を救いました。
この療養所の治療に尽力したのが、コルドバ大学出身のアルマンド・シーマ博士です。彼は生涯、無報酬で日本人患者の治療を続け、その功績により勲三等瑞宝章を受章しました。彼の名前が病院名となっているEl Hospital Dr. Armando Cimaでは水溜侃氏の妻、ヒガテレサ氏のたっての希望で息子のガブリエル氏が申請し実現した草の根無償供与で贈与されたエコー、心電図、などの医療機器があります。
・その後、病気の町というイメージがついてしまったコスキン市のイメージを一新しようと、観光客を呼び込んで観光と文化による再生を図りました。
1960年、2人の音楽家によって始まった「コスキン・フォルクローレ・フェスティバル」は、今では中南米最大級の民族音楽祭に成長。毎年8万人を超える観客が訪れます。
日本では、水俣町(現・福島県川俣町出身の音楽家の縁)から1975年に「コスキン・エン・ハポン」が始まり、両都市の交流が始まりました。日本代表が本場コスキンに招かれるようになり、音楽を通じた文化交流が深まりました。
・長年の音楽交流を経て、2024年12月19日、川俣町とコスキン市が正式に姉妹都市提携を締結しました。
この姉妹都市関係を陰で支え続けてきたのが、かつての移住者の子孫であり、文化大使として活動した水溜ガブリエル氏です。彼の心には今も「日本とコスキンの友情を守りたい」という想いが息づいています。
・2026年には、アルゼンチン日本人移住140周年を迎えます。
コスキンに刻まれた療養者たちの足跡、移住者の助け合いの精神、そして音楽が結んだ絆は、今も静かに息づき、次の世代へと受け継がれています。
・1920年代、結核の療養に適した澄んだ空気と乾燥した気候を求め、多くの日本人がコルドバ州の山間部コスキンを訪れました。1925年ごろから日本人患者が集まり、やがて23名がこの地で亡くなりました。
彼らの遺体が墓穴に埋められたままになっているのを憂いた水溜侃氏、玉城勝氏、比嘉サンティアゴ氏らが発起人となり、前川一家の協力で墓石を建立しました。墓石は宮城県の石材業者の支援で造られ、後に2011年の東日本大震災で行方不明となるも、奇跡的にアルゼンチンに届き、再び墓所に戻されたという感動的な経緯があります。
・結核患者の増加に対応するため、1931年にコルドバ在住日本人らが療養患者の宿泊・食事・手続き支援を行いました。
これをもとに、1936年には「在亜日本人会付属コスキン結核療養所」が正式に発足。男子・女子病棟を備えた50床の施設となり、多くの日系人を救いました。
この療養所の治療に尽力したのが、コルドバ大学出身のアルマンド・シーマ博士です。彼は生涯、無報酬で日本人患者の治療を続け、その功績により勲三等瑞宝章を受章しました。彼の名前が病院名となっているEl Hospital Dr. Armando Cimaでは水溜侃氏の妻、ヒガテレサ氏のたっての希望で息子のガブリエル氏が申請し実現した草の根無償供与で贈与されたエコー、心電図、などの医療機器があります。
・その後、病気の町というイメージがついてしまったコスキン市のイメージを一新しようと、観光客を呼び込んで観光と文化による再生を図りました。
1960年、2人の音楽家によって始まった「コスキン・フォルクローレ・フェスティバル」は、今では中南米最大級の民族音楽祭に成長。毎年8万人を超える観客が訪れます。
日本では、水俣町(現・福島県川俣町出身の音楽家の縁)から1975年に「コスキン・エン・ハポン」が始まり、両都市の交流が始まりました。日本代表が本場コスキンに招かれるようになり、音楽を通じた文化交流が深まりました。
・長年の音楽交流を経て、2024年12月19日、川俣町とコスキン市が正式に姉妹都市提携を締結しました。
この姉妹都市関係を陰で支え続けてきたのが、かつての移住者の子孫であり、文化大使として活動した水溜ガブリエル氏です。彼の心には今も「日本とコスキンの友情を守りたい」という想いが息づいています。
・2026年には、アルゼンチン日本人移住140周年を迎えます。
コスキンに刻まれた療養者たちの足跡、移住者の助け合いの精神、そして音楽が結んだ絆は、今も静かに息づき、次の世代へと受け継がれています。