| | スペイン語 | Español |
住所・開館時間
在留届
パスポート
在外選挙
教育情報
手数料
治安情勢
安全の手引き
防犯対策
 

Perito Moreno

 
ペリート・モレーノ
国立公園
(Parque Nacional Perito Moreno)
 
 
 

アルゼンチン通の話

 

 アルゼンチンという国

  • 「アルゼンチン」の国名の由来
    アルゼンチンのARGENTINAは、ラテン語のARGENTUM(銀)から転化した名称と言われている。これが南米南部のラプラタ川周辺地域を示す名前として登場したのは、16世紀後半に総督に随伴してこの地域にやってきた神父にして詩人でもあったマルティン・デル・バルコ・センテネラの詩の中であったとされている。当時のスペイン人征服者たちは金・銀を求めて探検していたが、アルト・ペルー(現在のボリビア)に銀が発見されたため、大西洋からアルト・ペルー方面へ遡る川をラプラタ川(銀の川、プラタはスペイン語で「銀」)と名付けている。当時新大陸に渡ったスペイン人がいかに金や銀を欲していたかが理解できる。
  •  

  • 多様な自然の国
    アルゼンチンは大きく西部(アンデス地方)、北部、中央部(パンパ)及び南部(パタゴニア地方)の4地方に分けられる。アンデス地方にはチリとの国境地帯に南米最高峰のアコンカグア(6,959m)など6,000m級の高峰が聳えている。北部は広大、肥沃な森林地帯であり、世界三大瀑布のひとつイグアスの滝もこの地方にある。中央部のパンパは何時間車で走っても景色の変わらない大平原であり、農業国アルゼンチンの富の源泉である。パタゴニアはアルゼンチンの南半分、ここだけで日本の2.5倍の広さの85万km2もあるが、人口は僅か50万人の荒涼たる大地である。一年の大半は烈風が吹きすさぶ厳しい自然であるが、羊毛の一大産地であり、コモドーロ・リバダビア付近はアルゼンチン最大の油田地帯でもある。なお、パタゴニアの南部はティエラ・デル・フエゴ(スペイン語で「炎の大地」)とも言われているが、これは1520年にマゼランが海峡を通過したとき、陸地のあちこちに夜火(噴出ガスの燃える火)が見えたためである。
  •  

  • 文化と教養の国
    アルゼンチンを訪れた人々は、アルゼンチンが南米のイメージよりはるかにヨーロッパ的であることに驚く。実際に人口の97%はヨーロッパ系(スペイン系、イタリア系が主体)で、教育水準、文化水準は高い。ノーベル賞受賞者が5名(医学賞2名、平和賞2名、科学賞1名)も出ており、芸術分野でも、文学のホセ・エルナンデス(パンパに生きるガウチョと呼ばれるカウボーイたちを歌った長編詩「マルティン・フィエロ」の作者)、1986年6月に逝去したホルへ・ルイス・ボルヘス(再婚した夫人は日系人)、絵画のキンケラ・マルティン(タンゴ発祥の地ボカの風景画で有名)などが有名である。演劇も盛んで、アルゼンチンだけで45の劇場がある。中でもコロン劇場は、パリのオペラ座、ミラノのスカラ座と並び世界の三大劇場のひとつである。
  •  

  • 首都アルゼンチン
    現在のアルゼンチンは「南米のパリ」と称されるヨーロッパ的な美しい街である。1536年2月3日にスペイン人探検者ペドロ・デ・メンドーサがラプラタ川の支流のリアチュエロ川河口に建設した居留地がその発祥であるが、その日が自分の信仰する聖母ブエン・アイレの日であったため、これが街の名の起源になったとされる。この居留地はその後先住民により破壊されたが、1580年にフアン・デ・ガライによって再建され、それが現在のアルゼンチンの直接の前身となった(ブエン・アイレはスペイン語で「澄み切った空気」の意。ブエノス・アイレスはその複数形)。
  •  

  • アルゼンチン・タンゴ
    アルゼンチンと言えば誰でも「タンゴ」を思い起こす。タンゴは19世紀末にアルゼンチンの港町ボカ地区が発祥の地である。しかし、当時は港町の貧しい労働者などが集まる場末の酒場で演奏されていたもので、一般のアルゼンチン人にとっては貧困階級の音楽として嫌われていた。ところが、これが国際航路の船員たちによって欧州に紹介され、1910-20年代に欧州で爆発的に流行し、いわゆるコンチネンタル・タンゴとして世界中に広まり、アルゼンチンでも評価し直されたのである。歌手としては、カルロス・ガルデル、作曲家としてはフランシスコ・カナロ、アストル・ピアソラなどが世界的に有名である。また、タンゴの名曲として「ラ・クンパルシータ」(但し、作曲家はウルグアイ人)、「バンドネオンの魂」、「アディオス・パンパ・ミア(さらば我が平原)」などが知られている。1980年代にタンゴのリバイバル・ブームがあったことは記憶に新しい。
  •  

  • サッカー王国
    サッカーはアルゼンチンではいわば国技である。「リバー・プレート」、「ボカ・ジュニア」、「ベレス」などを頂点に多くのプロ・クラブチームがある。ナショナル・チームとしてはワールドカップで過去2回(1978年の第11回アルゼンチン大会、1986年第13回メキシコ大会)優勝している。1998年のワールドカップ第16回フランス大会では、初戦で日本を破り全勝で予選を勝ち抜いたものの準々決勝でオランダに敗れた。また、2002年の日韓共催のワールドカップでは、まさかの予選リーグ敗退という苦杯をなめた。これまで、ケンペス、マラドーナ、バティストゥータ、ベロンなど世界的なプレーヤーを輩出している。アルゼンチン・チームの試合がある時には、アルゼンチンの街は車も人通りもなくなり静まりかえる中、人々はテレビにかじりつき、アルゼンチンが得点を挙げるとあちこちからどよめきが聞こえる。チームが勝つと人々は街に出て車のクラクションを鳴らしたり、爆竹をたいて喜びを表す。
  •  

 長い友好の歴史


  • 日本海海戦と巡洋艦「日進」、「春日」
    帝政ロシアとの関係が風雲急を告げつつあった20世紀初頭、予想されるバルティック艦隊との海戦に備え、日本海軍にとり海軍力の増強は焦眉の急であった。日露開戦の前年、アルゼンチンは当時イタリアに建造発注しほとんど完成していた最新鋭装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」を売却しても良いとオファーし、日本は直ぐさま交渉しこれに妥結した。最初に交渉を行ったのは、当時アルゼンチンを兼轄していた駐ブラジル代理公使堀口九万一(詩人堀口大学の尊父)である。イタリアからこの二艦を横須賀に無事に回航する大役を果たしたのは鈴木貫太郎海軍中佐(太平洋戦争終戦時の総理大臣)で、二艦は日露開戦の6日後の1904(明治37)年2月16日、国民歓喜の中横須賀に到着した。それぞれ「日進」、「春日」と命名されて、旗艦「三笠」の隷下に入り、日本海海戦で戦功を挙げた。アルゼンチンが日本に示した好意の背景には、1898年に結ばれていた日亜友好通商航海条約や、その翌年に訪日して大歓迎を受けた海軍練習艦「サルミエント」のベトペデル艦長が海軍大臣になっていたことなどがある。因みに、その後、「日進」は1935年(昭和10)年に廃艦となり、「春日」は1945年に米軍機の爆撃で沈没している。
  •  

  • 観戦武官ドメック・ガルシア
    前記の装甲巡洋艦「リバダビア」と「モレノ」をイタリアにおいて日本側に引き渡す際のアルゼンチン側代表であったドメック・ガルシア海軍大佐は、その後、命を受け日本に行き、日本海海戦において観戦武官として「日進」に陪乗した。その後もドメック・ガルシア大佐は日本に残り、膨大な報告書を本国に提出した。この報告書は単なる海戦の記録に留まらず新興国日本の海軍事情を具に調査・分析したものであった。更に、この報告書は80年の歳月を経て海上自衛隊の教育用資料として邦訳され、更に、日亜修好100周年を記念して1998年に日本アルゼンチン協会から「アルゼンティン海戦武官の記録」として公刊された。ドメック・ガルシア大佐は1932-38年には海軍大臣となり、退役後はアルゼンチン日本文化協会の会長として両国友好に余生を尽くした。御子孫の家には、ドメック・ガルシア大佐が明治天皇から送られた銀花瓶と金蒔絵の重箱が家宝として保存されている。
  •  

  • ペロン大統領夫妻と日本
    アルゼンチンは荒廃と飢えに苦しむ敗戦後の日本に援助の手を差し伸べてくれた国のひとつであった。1946年に大統領に就任したペロン大統領は、日露戦争の研究を通じて日本に高い関心を持っていた。大統領夫人エバ・ペロンは夫が大統領に就任してから「エバ・ペロン」財団を通じて慈善活動を行い、その一環として1949年と1950年に食糧、衣料品などを日本に援助している。また、アルゼンチン国内ではペロン大統領夫妻が、邦人のカトリック受洗者850名の代父母になるなど、日本と日本人に対して厚い好意を示した。
  •  

  • サン・フランシスコ講和条約
    第二次大戦中、アルゼンチンは連合国側の早期参戦への圧力にもかかわらず、終戦間近の1945年3月26日まで対日宣戦布告を行わなかった。1951年のサン・フランシスコ講和条約についてもアルゼンチンは日本の国際社会への復帰を支持し、同年12月同講和条約はアルゼンチンの議会でも批准された。この時、当時の野党急進党のフロンディシ下院議員らがその批准に反対したが、その理由は「講和条約は敗戦国に厳しい勝者の条約であって、冷戦下における米国の戦略の一環に他ならず」というもので、日本に同情したもっと寛大な講和条件であるべきというのが理由のひとつであった。フロンディシ下院議員は、1958年に大統領となり、1961年にはアルゼンチンの大統領として初めて訪日している。
  •  

  • 日亜修好100周年
    コルドバ市の教会の古文書に、1597年にフランシスコ・ハポンという名の日本人奴隷がいたとの記録が残っており、これが日本人とアルゼンチンの最初の接触であったと思われる。しかし、時代が下がり日本とアルゼンチンが初めて国交を結んだのは1898(明治31)年2月3日に締結された日亜友好通商航海条約によってであった。中南米諸国ではペルー(1873)、メキシコ(1888)、ブラジル(1895)、チリ(1897)に次ぐもので、特に日本にとり初の平等条約であったメキシコとの修好通商条約以後、不平等条約改正という明治政府の国策の一環であった。1998年はその100周年にあたり、修好100周年記念式典、メネム大統領の訪日などの他、経済、文化、学術面の記念行事が日本とアルゼンチンで開催された。なお、その前年の1997年には天皇皇后両陛下がアルゼンチンをご訪問されている。
  •  

  • 秋篠宮文庫
    前記日亜修好100周年の記念事業の一環として、日亜修好100周年記念事業組織委員会と日本アルゼンチン協会が中心になり、宮様の名を冠した「秋篠宮文庫」が日亜学院の中に創設されることになった。寄付された図書約5000冊を揃え、パソコンで検索できるよう整備され、日亜学院創設75周年の2002年12月に正式に開館した。

   



Copyright(C): 2012 Embassy of Japan in Argentina

 

Bouchard 547, Piso 17 C1106ABG - Ciudad de Buenos Aires - República Argentina
Tel: (54-11) 4318-8200 / Fax: (54-11) 4318-8210

 

| 法的事項 | アクセシビリティについて | プライバシーポリシー |